トランス女性の女性専用スペース利用をめぐって、ひとりのシス女性が考えたこと

 

 

存在してるんだもん、仕方ないよ。わたしもあなたも。

MtFの女性専用スペースの利用について、ひとりのMtFが考えたこと - 黒井みふ子の真夜中日記

 

上記のトランス女性当事者のブログを見たので真似をして私も書くことにしました。自己紹介します。

私はシスジェンダーヘテロセクシャルの女性です。でもこの話題が出るまで、「私はシスジェンダーヘテロセクシャルの女性です」と紹介することは人生で一度も無かった。何故ならそれが必要ではなかったから。ちなみに女子大を一度卒業していますが現在も学生です。「トイレで怖い目に遭ったことがない人は口出しするな」「女性なら見知らぬ男性の男性器に対して恐怖を抱いているはずだ」という(それぞれ別人の)主張を目にしたので、一応言っておくと、幼少期にトイレで性器を触られる性暴力に遭いました。見知らぬ男性からではなくて従兄からでしたけど。でも、見知らぬ男性の男性器も従兄のそれも怖くないです。電車の中で足開いて座ってるおじさん(とおぼしき)人にはイラッとします。

そして、女性差別にもトランス差別にも、反対します。

 

I. トランス差別だと批判されている人々はフェミニストかセクシストか

トランス差別だと批判されている人々を、フェミニスト自称の「ただのセクシスト」として批判すべきか、運動内の腐敗を「自浄」するためにフェミニストとして評価すべきか。

彼(女)らは①「女性の被害」を可視化し、「女性が抱く恐怖」を正当なものだとする(Twitter上でよく見られる)フェミニズム的な理屈でもって主張している。その理屈自体は、基本的に特に否定のしようがない。だけど②それが誤った方向に向けられ、③差別と化してる現状がある。だから、①に対応しつつ②を加えると如何フェミニズム的に破綻するのか、それが即ちフェミニストとして致命的な主張か、ということを批判できるでしょう。③だけを問題とするなら、ただの差別者だと言えるんじゃないでしょうか。

まあ今まで同じ理屈を共有してきた人なら、それの運用がどのように正当になされるべきかという点で、前者になるのかな。「気持ちは分かる」という人多かったですし。

 

Ⅱ.「こういう人が(一人でも)居た」ということの不毛さ

だいたいMtFもいろいろだものね。

MtFの女性専用スペースの利用について、ひとりのMtFが考えたこと - 黒井みふ子の真夜中日記

 これに対して、「だいたい女性もいろいろだもんね(当然ここで言う「女性」にはトランス女性も含まれています)」と返したいわけですが。ところで、痴漢被害の話している時に、痴漢冤罪の話出されるの鬱陶しいじゃないですか。それでよく、「痴漢冤罪なんて無い」という方を見るんですけど、もの凄い悪意と計画性があれば、あるいは(理屈上)凄くこねくり回せば、100%不可能とは言えないと思います。ただハードルがかなり高いし、メリットもない。ちなみに私の友人で「この人痴漢です」といきなり手を捕まれて声をあげられた男性がいます。満員電車とか不可抗力で当たって勘違いが生まれるといった状況でもなかったそうです。結果的には、そのとき友人が素直に驚いて反応したら相手の女性はすぐに引き下がったということです(当然冤罪として「成立した」例ではないですし、その女性が実際何を思っていたかは分かりませんが)。

何が言いたいかと言うと最初の「女性もいろいろだもんね」です。「そういう人が一人も居ない」「いや居た」「だから不当だ」「正当だ」じゃないんです。女性差別に焦点を当てた文脈で痴漢被害の話をしていて、痴漢冤罪を持ち出された時(確かに可能性として居るかもしれないし居たかもしれないが)、「今その話してない」「だから”(この文脈でマイノリティである)女(全体)こわ~い”とされる筋合い無い(内心で思ったとしても、マジョリティ間で共有される認識として扱われることは不当だ)」「それが成立するには、かなりハードルが高いしメリットがない」ということで十分なんじゃないでしょうか。

トランス女性で実際に所謂未オペのまま、あるいはパス度が「十分」ではないまま女性用トイレやお風呂に入ると公言してる人が”一人でも”居たかどうか。そもそも(女性差別に加えて)セクシャルマイノリティに焦点を当てた文脈で、その可能性を切り捨てることに大して意味は無い。ここまでで二度に渡って引用させていただいたブログや、当事者の声を聞けばそれが如何に少数派で「ハードルが高くメリットがないか」ということ、その現実や事実は分かるわけです。そしてそれは、その属性全体の印象として「トランス女性こわ~い」とマジョリティ間で共有される認識として語られる筋合いがないし不当です。ついでに言えば性犯罪防止とトランス女性(の排除)は無関係だし、トランス女性も高い確率で性犯罪に被害者となるので、加害者への恐怖感を共有しており、その解消が一方になされたりむしろその恐怖をぶつけられたり皺寄せが行くのは、(権利というものを前提にする次元のおいて)不当あるいは不平等だという話は何度もされていると思います。

追記(1/23): Twitterで取り沙汰されている当事者の発言は、当事者間で批判もされていますし、また本人(たち)が謝罪したり意図の説明がなされているものを含んでいると今日私は認識しています。

 

Ⅲ. そもそも持ち出している集合(属性)からして妥当じゃない

 大きな論点の一つになっているのは「女性(繰り返しますがここにはトランス女性も含みます)は男性からの性暴力に晒されてきた現実がある」「だから男性を警戒せざるを得ない女性がいる」「その際男性とそうでない人の”見分け”がつかない」ということです。ここまではただの事実と言えば事実ですしそれぞれの命題は真です。そしてこう帰結します。「その警戒や恐怖心を表現するのもいけないのか」と。

ある意味で抽象的な「男性<ジェンダー>」を警戒するというのとは別の次元で(そうであればそもそもトランス女性を引き合いに出す理由がないので)、現実に見分ける際の基準というものは、"見分け"るという言い方から分かるように(個別にコミュニケーションを取ることで判断する等ということで無ければ)外見ということになると思います。11月くらいにお茶の水女子大のトランス女性受け入れに否定的な立場の方から「見た目が男体の人間」という言葉が発せられていましたが、これは見事なまでに端的に表現された言葉です(引用元のブログでも同じ人のツイートが持ち出されていたことは実に感慨深いことです)。つまり、ある次元において「男性を警戒せざるを得ない」ということは丁寧に分析すると、多くの場合「外見上"男性"だと想定できる人を警戒せざるを得ない」ということに繋がります(尚、外見上の判断基準を男性器の有無のみに集約させて「男性器がある人=外見上”男性”だと想定される人」を基準として採用するとき、それはお風呂では明確に適用可能なものとなります。であるが故に引用元のブログでもトランス女性の公衆浴場利用のハードルの高さが言及されているわけです。ちなみにその基準は身体二元論に他ならないのでそれの批判はそれとしてあるでしょう)

つまり、現実に(服を着た上で)見た目で判断しなければならない状況で且つ男性を警戒せざるを得ないとき引き合いに出されるのは「外見上”男性”だと想定できる人」という集合に他ならず、その集合はトランス女性とイコールではないです(ベン図でも書きます?高校の数学11点取ってたような人間なんで勘弁してほしいんですけど)。集合として重なる部分は当然あると思いますが、それはどの属性でも同じ事なのでとりわけトランス女性のみを引き合いに出す妥当性として欠けます。

「その警戒や恐怖心を表現するのもいけないのか」この問いの応えましょう。「その」の部分にトランス女性という集合を持ち出すあるいは絡めるならば妥当な表現ではないですね。

 

Ⅳ.(シスヘテロ)男女二元論を基盤とした穴だらけの世界で

これまで男女二元論の枠組みの中で女性差別は語られてきましたし、それ自体は妥当なことです。同様に、トイレをはじめとした設備も男女二元論に基づいてデザインされてきました(がそれが妥当かという話はまた別です)。ただ、その男女二元論からこぼれ落ちた人は「存在」している。トランスジェンダーに限らずXジェンダーがそうです。女性差別についてそれらを”常に”必ず扱わなくてはいけないか、というと違うのかもしれません(ただフェミニズム的には”時に”避けては通れない気もします)が、少なくとも人間らしく生きるために不可欠な排泄に纏わる基本的人権は、彼らも取りこぼされることなく当然保証されなくてはならないというのが権利上の大原則です。言い換えるなら、トイレを女性差別だけの文脈で語るのは無理で、それを無視していいというわけでもなく、ただ全ての人間が排泄する以上、全ての人間が人間らしく生きる権利がある以上、セクシャルマイノリティや障害者等についても視野に入れなくてはいけない話です(お風呂もそう考えると色々と考える余地がありそうですが現段階で私はそこまで言及する能力がないのでここでは掘り下げません)。

それでも、男女二元論に基づいて彼らを取り残したままの設備で、明日すぐにはどうにかできないそれで、男女二元論的な女性差別を抱えながら、トラブルをなるべく避けて運用しようとする中で、多くの彼らがそのために処世的に上手くやってきてくれたことを否定することなどできない(でもマジョリティとしてはそれに甘んじでいいかと言われるとそうではない)。トランジションの状況やセクシャリティなど「いろいろだもんね」の彼らの多くが、そのいろいろに応じてやってきてくれたことを否定できない。「いろいろだもんね」の「いろいろ」も分かってないような状況で、そうでいられた立場で、乱暴に線を引いてもそれはトラブルを増やすだけなのですから。

 

Ⅴ. 最後に

「権利があること」は誰にも否定できるものではありません。権利に順番はありません。しかしそれは現実に100%行使できる現実であるということとイコールではありません。そのような現実はマジョリティ向けに作られた結果なので、その立場から一方的に「じゃあこの現実だからマイノリティはこうしてよね」と言うのは特権性の行使です。更にマイノリティを排除する権利は基本的にありません。

この当たり前の前提を共有しない人々も、またシス(マジョリティ)/トランス(マイノリティ)の構造の否定の一点強行突破しようとする人々がいるのも分かっていますが。

 

追記(1/23):当事者であり友人である女性からちょっと前からTwitterで紹介させてほしい と言われ、こんなものでいいのかと、もっと言えることがあるのではとしぶっていましたが、1月2日時点の記録として価値があるならそうしてもらおうかなと思いました。ここ数週間で様々な言説を見る中で加えたり考えをブラッシュアップした部分があるのでまた別の日にでも書こうかなと思います 。